ちょっと真面目チョット皮肉 163
石山祐二*
童謡「赤い靴」の歌碑(写真 1)が札幌市山鼻(やまはな)公園に建立されたとの新聞記事を見て、横浜市山下公園の女の子の像(写真 2)を思い出した。さらに、北海道の留寿都(るすつ)村にも女の子の像(写真 3)が赤い靴公園にあり、その近くの道の駅には彼女の母親の像があることを知った。
写真 1 札幌山鼻公園の「赤い靴」歌碑
写真 2 横浜市山下公園の「赤い靴はいてた女の子」の像
写真 3 北海道留寿都村の「母思像」
赤い靴の女の子のモデルは「佐野きみ」(1902-11)である。静岡県出身の「岩崎かよ」は未婚の母として「きみ」を育て、北海道に渡り鈴木志郎と結婚する。鈴木夫妻は留寿都の平民農場へ入植するが、その際に 3 歳の「きみ」を連れて行くのは無理とのことで、「きみ」の養育を函館にいた米国人宣教師ヒュエット夫妻に依頼した。やがてヒュエット夫妻は米国に戻るが、結核に冒されていてた「きみ」を一緒に連れて行くことができなかった。結局、東京麻布の教会の孤児院に預けられた「きみ」は、そこで 9 歳で亡くなったが、母親の「かよ」は娘が米国に渡ったものと最後まで思い込んでいた。
鈴木夫妻は札幌市の山鼻地区に移り、同僚で隣人の野口雨情に娘の「きみ」は宣教師に連れられて渡米したという話をし、それを基に野口雨情は1921 年に「赤い靴」を作詞し、1922 年に本居長世が作曲した。
以上のような話は、1973 年に「きみ」の異父の妹である鈴木夫妻の三女「岡その」が新聞に投書したのがきっかけである。この記事に注目した北海道テレビの記者・菊地寛が調査を行い、1978 年に「ドキュメント・赤い靴をはいていた女の子」が放送された。翌年には小説としても出版され、これが定説となっている。しかし、「きみ」は宣教師夫妻には預けられなかったなどの異論がある。
異論の有無とは関係なく、50 年以上も経過して生まれた定説に基づき、この童謡と関係がある日本各地に像などが建設されていて、2015 年 6 月に札幌市の歌碑もその一つに加わったことになる。定説の真偽は、一部の人々には重要かも知れないが、多くの童謡を歌う人には、その背景にある歴史的な事実よりも、その歌詞とメロディーから想像されることを自分なりに感じていることの方が重要であろう。いずれにしても、童謡「赤い靴」が日本人の心に響いているからこそ、今でも注目を浴びているに違いない。これからも、特に若い母親には、このような童謡を子供が小さい時から歌って聞かせて欲しいと思っている。
*いしやまゆうじ 北海道大学名誉教授
(一社)建築研究振興協会発行「建築の研究」2015.12原稿