ちょっと真面目チョット皮肉 134
石山祐二 *
新潟県新発田(しばた)市に蕗谷虹児(ふきやこうじ)記念館(内井昭蔵設計、1987 年竣工)がある(写真1)

彼(本名は蕗谷一男)は新発田市生まれで、母親の死後、新潟市で丁稚奉公をしながら絵画を学んでいた。その才能が認められ、14 歳の時に東京に行き、日本画の勉強をした。竹久夢二とも交流があり、1921 年に蕗谷虹児として雑誌に挿絵掲載を初め、それが好評で朝日新聞の長編小説の挿絵画家として抜擢され、全国的に名前が知られるようになった。1924 年には詩画「花嫁人形」を発表している。しかし、彼は挿絵画家には満足せず、1925 年に絵画を学ぶためパリに5 年間ほど留学し、その間に公募展に連続入選するなど活躍した。1929 年に帰国した彼は、パリ留学中に杉山長谷夫が作曲した花嫁人形の歌を銀座の街角で聴いて「おれの詩だ」と気付いたという逸話がある。
1964 年に彼の生い立ちが新潟日報に連載され、それが大反響を呼び、これが基で「花嫁人形」の歌碑が、1966 年新潟市内のホテル・イタリア軒に面している小路の向かいに建設された(写真2)。彼の希望で選ばれたこの場所は、母親の死後彼が少年期を過ごしたところである。花嫁人形の詩は、「28 歳という若さで死んだ母と、貧しさのため芸者屋に売られた幼馴染みの女の子が二重写しとなって歌ったもの」と彼自身は書いている。

彼は1979 年に80 歳で亡くなったが、1997 年にふるさと切手「花嫁」(写真3)が発売され、それが非常に好評で、(手に入り難いかも知れないが)今でも販売されている。70 歳の時に描いた切手の原画が記念館に展示されており、小さな切手からは気が付き難いような細部まで間近に見ることができる。

例えば、下地の紅色がうっすらと浮かび上がって見える鶴の模様の入った白い角隠し、花柄模様が入った白色の花嫁衣装、その上の鮮やかな色彩の打ち掛け、そして目元からは涙がこぼれているのではないかと思わせるような様子(これは記念館で説明を受け、ようやくそうかも知れないと思ったほど繊細であるが・・・)もうかがえる。
26 歳の時に詩画「花嫁人形」を発表し、その後40 年以上も経って、母への追慕(そしてかわいそうな幼馴染みを想う気持ち)を持ち続け、70 歳の時に切手の原画となる「花嫁」を描いたのである。若いときに作った花嫁人形の歌と老年になって描いた絵の両方を知ると蕗谷虹児という画家・詩人に対する興味が一層湧くに違いない。
* いしやまゆうじ 北海道大学名誉教授
(社団法人)建築研究振興協会発行「建築の研究」2011.2掲載