ちょっと真面目チョット皮肉 138
石山祐二 *
ヴォーリズが設計した最北の建築「ピアソン記念館」が北海道北見市にある。米国人宣教師ピアソン(George P. Pierson、1861-1939)は 1888(明治 21)年に来日し、東京で日本語を学びながら英語を教え、キリスト教の伝道を行った。 1894(明治 27)年に北海道に移り、 1928(昭和 3)年に帰国するまで函館、室蘭、小樽、札幌、旭川、北見において伝導を続け、廃娼運動や慈善活動にも貢献した。
ピアソンは、(今では北見駅から徒歩 15分で行くことができるが)当時は道もなかった高台が故郷に似ていると気に入り、日本に在住していたヴォーリズに設計を依頼し、 1914(大正 3)年に木造 2階建の山小屋風の住居を建てた。その後、帰国まで 14年間住んでいたのが、このピアソン記念館である(写真 1)。ピアソン夫妻帰国後、この建物の所有者は数回替わり、 1970年に北見市が復元工事を行い、現在では入館無料の記念館として NPO法人が運営管理している。
1階の天井(てんじょう)を見上げると、床根太(ゆかねだ)と 2階の床板を見ることができる(写真 2)。断面 4.5 × 30cmほどの根太が約 45cm間隔で配置されており、枠組壁工法(ツーバイフォー)のような床組である。床板には合板ではなく、細幅の板が用いられており、火打ち材のような水平筋かいも見える。外観を見ると 2階の階高(かいだか)が 1階に比べて低すぎ、また 2階の左右にある窓枠の隅が軒によって斜めに切り取られているので、何となくおかしいと感じた。その後、 2階の階高は図面より小さく造られているという説明を聞いた際には、私の直感が当たっていたので何となく安心したが、なぜ階高が低くなったのであろう。
運ばれてきた木材の長さが少し足りなかっため、やむを得ず階高を低くしたのか、床の上から柱を建てる(北米式の)工法とすべきであったのに、土台の上に 1階から 2階まで連続した通し柱を載せる(日本式の)工法としたため、 2階が低くなってしまったのかなど想像している。本当の理由は分からないが、軒の長さも図面より小さくなっていることや、工事中に棟梁(とうりょう)が変わり 3人目でようやく完成したという説明を聞き、大正初期にインチ・フィート表記の図面に従って洋風の建物を建設するには、色々と困難があったに違いない。
なお、設計者がヴォーリズ( William Merrill Vories、 1880-1964)と判明したのは 1995年のことである。彼は米国生まれの建築家で、日本で多数の教会、学校(明治学院大学礼拝堂、同志社大学校舎、関西学院大学校舎)など約 1600棟の建物を設計した。その中でピアソン記念館は最北の建築である。ヴォーリズはメンソレータムを普及させた近江兄弟社を創設した実業家でもあり、 YMCA活動を通じてキリスト教の伝道活動にも従事し、日本女性と結婚し日本国籍も得た人物である。
* いしやまゆうじ 北海道大学名誉教授
(社団法人)建築研究振興協会発行「建築の研究」2011.10掲載